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NPO法人 心身コンサルテーション HOW’Sは、今年度いっぱいは個人の活動に重点を置くとともに、いっそうの飛躍のための充電を行います。
どうかよろしくお願いします。
去る3月31日に、第八回精神保健福祉士国家試験の合格発表がありました。
当法人心理担当勝亦も受験しておりましたが、合格することができました。 結果としては、 ・専門科目:66点(満点79)84% ・共通科目:47点(満点79)59% ・合計:113点(満点158)72% でした。 個人的には、今後沖縄県での就職を目指し活動していきます。 明日より、一ヶ月の予定で就職活動にまいります。 また、 NPO法人税の減免手続きを昨日ひととおり終え、毎年度提出する書類も無事届けることができました。 今後としては、東京での活動母体について本日これから打ち合わせにまいります。 季節代わりですし、年度初めということで忙しくしていらっしゃる方も多いかと思います。 どうか体調に気をつけご自愛ください。 心理部門:勝亦
”現代の『アジール』としての精神科病棟についてのメモ ー閉鎖病棟入院を踏まえてー”
○0.『アジール』とは ”アジール:【Asyle ドイツ】世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所、平和領域、またその人と集団。自然の中の森・山・巨樹や奴隷・犯罪者などが庇護される自治都市・教会堂・駆込寺など” (引用文献:新村出 編(1991)広辞苑 第四版.岩波書店) ○1.実習 今回、春の実習で私は精神科病院閉鎖病棟に体験入院した。 その経験は、今後私が精神保健福祉士として、あるいはひとりの人間として生きていくうえで、とても貴重なものであった。 精神保健福祉士を志す人間、もとい精神科医療・福祉に携わる人間は、すべてこの体験入院を経験するべきである、とさえ今は思っている。 実習期間は全12日間。そのうち閉鎖病棟に5泊、開放病棟に6泊させていただいた。正直に言って、この12日間という日数は、これを踏まえてなにかを語るにはおそらく短か過ぎるのではないかと思う。 しかし、精神保健福祉士を目指して勉強してきたこの一年間の中で、この経験は締めくくりに相応しい、非常に濃密な期間であったことも確かであり、感じたことをここに書き残し、今後考察していく上での下地にしたいと考えている。 ○2.『アジール』 実習に出掛ける前、父親からたまたま、中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)という本を借りた。 それを読む中で、どうしても『アジール』ということばがひっかかり、現代におけるアジールとは、今では精神科病棟のことなのではないかと私は考えていたのである。(*著者の中沢新一は、精神科病院には触れていない。) 法的な根拠を示すには私はあまりに無知であるが、刑法は第39条において心神喪失者の不処罰および心神耗弱者の刑の軽減を認めている。 しかし、それより重要なのは、これから私が述べるある種の感覚なのではないのだろうか。 ○3.閉鎖病棟での生活 精神科病院のワーカである実習担当者や、地域生活支援センターの職員に「閉鎖病棟はどう?」と聴かれた際、私は「思ったより不快ではありません。」と答えていた。 それを聞いた先輩職員たちは、ずいぶん驚いていたようであった。彼(彼女)らの感覚では、「自分たちが、精神障害を持っているひとびとが地域で生活していくのを支援しているというのに、閉鎖病棟の居心地が悪くないとはなにごとか!」ということであったらしい。 しかし、私は率直に感想を述べたのであった。 確かに、現代の精神科医療・福祉では、病棟を出て地域を指向していくことがもっともな正解であり、法的にもそれは求められていることである。なにより、私は触れ合った患者さんから確かに「退院したい」という思いも聴いている。 ”地域へ”、その流れは、やはりまったくもって正しい。 だが、それが即すべての精神障害を持つひとびとにとって当てはまるのかどうか、あるいは現代の”地域”がそれほど素晴らしいのか、また「閉鎖病棟=悪」とある面では教科書的な思考停止で捉えてしまえる感覚、そこに今の私は疑問を持っている。 私にとって、閉鎖病棟とは、”(現代的な意味での)『自由』から身を守る場所”であったと言える。 閉鎖病棟での日日が終わり開放病棟に移った時、私は自分の神経が過敏になっているのを感じた。次々に、その都度選択し決めねばならないことが押し寄せ、圧倒されてしまうようなぴりぴりとした刺激を感じ、疲労したのである。 その「刺激」こそ、おそらく(現代的な意味での)『自由』であり、先輩の職員方が最善と信じているものの正体であり、ある種の脆弱性を抱えるひとびとには、ときには負担や発症のきっかけになるものなのではないかと思う。 ○4.結論 閉鎖病棟は、おそらく必要なものであると思う。ただしそれは、きめ細やかな患者さんひとりひとりへの関わりや配慮、病状の把握があってこそのものであると思われる。現状では、組織運営や経営の面でそれが可能なのかどうか私には分からない。 しかし、閉鎖病棟を含む精神科病棟に現代的なある種の必要性(『アジール』としての意味)をも認めた上で、それを捉えて考えていくことが、今後のよりよい精神科医療・福祉に繋がっていくのではないかと、今の私は考えるのである。 ・参考1.『アジール』: ”アジールとは、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」などを含む特殊なエリアのことを意味する。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば「治外法権(が認められた地域)」のようなものである。 日本におけるアジール研究は、歴史学者の平泉澄が先鞭をつけた。平泉は初期の論文『中世に於ける社寺と社会との関係』の中で「アジールは人類発達の或る段階に於て、一般に経験する所の風習又は制度」と述べている。この発想は中田薫や網野善彦らに引き継がれ、何をアジールと認識すべきか、そのアジールを支えてきた制度がどのように変遷してきたか、などが徐々に明らかになってきている。 アジールとされる地域には、「神社・仏閣」などの聖地の要素を持つ場所のほか、「市場」などの自由領域・交易場所なども含まれる。商業都市なども「自治都市」として強いアジール性が認められた場所もある。遡れば、一定の勢力を持つ豪族の居所などにもアジール性が認めうるという研究もある。 アジールは、統治権力が及ばない場所であったため、統治権力の側はアジールを制圧し支配することに熱意をそそいだ。力による制圧のほか、一定の自治権を統治権力の側が認め許したという様式を整えることによってアジールを取り込み、結果としてアジール性を失わせるといった方法も取られた。こういった圧力の結果、時代が下るにつれアジールは徐々に狭められていく傾向にあった。国家の隅々まであまねく統治権力が及ぶとされる近代国家では、アジールは滅び、原則として存在しない。” ・参考2.『アジール権』: ”アジール(あじーる)とは、俗世界の法規範とは無縁の場所、不可侵の場所という意味。ギリシア語に由来するフランス語(?) asyle に由来する。 通常神殿や寺院、教会などがこれにあたる。宗教的、呪術的に特殊な聖域と考え、俗世界で犯罪を犯しても、アジールに逃げ込めば聖的な保護を与えられ、世俗権力による逮捕や裁判を免れるるという一種の治外法権のような性質を持った。 通例、アジールにいる間は保護を受けるが、一度外に出ると保護を受ける事ができない。犯罪を犯した者にとっては、追っ手に捕まって処罰を受けるか、アジールに逃げ込んで自ら幽閉生活を送るかの選択だったようである。また地域によってはアジール権を得ることができる期間に定めのあることもあった。 古代のエジプト、ギリシア、ヘブライ人にアジール権があったことが知られている。旧約聖書『民数記』には逃れの町の規定があり、過失による殺人を犯したものは、イスラエル中に5つ指定された逃れの町に避難することができ、この町の中にいる限りは、復讐をまぬかれることができた。これによって、裁判の前に被害者の縁者が加害者に復讐することを防いだ。しかし過失が立証された場合も、加害者は大祭司が死ぬまで逃れの町にとどまるべきことが規定されていた(『民数記』35章)。また『列王記』には幕屋がアジールの役割をもったことを示している。 キリスト教以後もアジールはヨーロッパの各地に残った。イングランドでは4世紀から17世紀にかけて教会にアジール権(英語では Right of asylum)が認められた。フランスなど西ヨーロッパ各国にもアジール権を認める地域は多く残った。しかし近代化の中で、王権が強化されるにつれ、アジール権は廃止されていった。 江戸時代に離婚の権利がなかった女性が逃げ込んだ縁切り寺もアジールの一つである。”(*『(?)』は筆者) (引用:ともに『フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ずいぶん毎日のさむさも和らいできたように思います。
いかがお過ごしでしょうか。 さて、心理部門:勝亦の個人的な近況になってしまいますが、 去る1月28・29日に行われた第八回精神保健福祉士国家試験なのですが、自己採点の結果、ほぼ七割は得点できているように思います。 基本的には六割の得点で合格になりますので、マークシートの塗り損ないがなければ、おそらく資格は無事に取得できそうです。 また、明日より12日間の臨床実習が始まります。 夏の実習では精神障害者通所授産施設でお世話になりましたが、今回は精神科病院です。 さらに、いちばん特筆すべきはその内容なのですが、12日間患者の皆様に交じり、まったくを患者さんと同じ生活リズムで過ごす『体験入院』です。 現在精神保健福祉士として勤務されている方であっても、おそらく患者さん同様に入院をされた経験のある方は少ないと思いますので、非常に貴重な体験です。 吸収できるものは思いっ切り吸収して帰ってきたいと思います。 こちらでも、感じたことや思ったことを後日掲載しますので、どうかお楽しみに。 それでは、やはり季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。 心理部門:勝亦 臨床実習先:医療法人秋山会 両毛病院 →http://www6.ocn.ne.jp/~ryomohp/
1.話し合いからの共通理解
今回、事前にグループ内で話し合った結果、全員が「(相互に依存し合っている)知識・価値・技術」については、どれが欠けてもいけないものである、という共通の認識を持っていると分かった。 また、『価値』を他のふたつに比べ抽象的なものであると捉え、『知識』と『技術』については比較的具体的なものであると捉えているように私には思えた。 2.現代 話し合いの途中、坂野先生より「現代は『技術』が中心になってしまっている」との言葉があり、現場を知らないながらも、私もそれには同意をしたいと思う。 ただ現代が重んじている『技術』というのは、言ってみれば前提として「『価値』や『知識』を含まないものとしての技術」と捉えられていると思われ、また、この課題自体もそういう意味で『技術』を定義していると考えられる。 3.バワーズ 今回私がこの課題を考えるにあたって参考にしたいのは、Bowers, Swithun.(1908-)である。 彼はカナダの社会福祉研究者であり、1949年に論文『The Nature and Definition of Social Casework』のなかで、ケースワークを 「ソーシャルケースワークとは、クライエントとその環境の全体または一部分との間に、よりよい適応をもたらすのに役立つような、個人の内的な力および社会の資源を動員するために、人間関係についての科学的知識および対人関係における技能を活用する芸術(art)である」 と定義している。 (*art を『技術』と訳したのは仲村優一であり、また、その当時はソーシャルワークの科学性を強調するのが必要な時代であったとのこと。) 4.technique と art 英和辞典によれば、 (1).technique =技術;(芸術上の技法、技巧);手段 (2).art =芸術、美術;技術、技能;学芸、人文科学;人工;技巧、熟練 etc... となる。 先ほど挙げた坂野先生の発言でも触れられている『技術』、つまり現代で偏重されているという『技術』とは、おそらく1.technique の謂なのではないだろうか。 そして、それには語義のひとつである「手段」としての側面が強いと考えられる。 ゆえに、現状に危機感を持つ一部のひとたちは、『技術』が手段としての意味を先行して強く持っているがために、そのための『目的』(つまりは、『価値』や『文化』)を必死になって探し求めているようにも見える。 5.心理療法との接点 私は、ソーシャルワークを学ぶ前は心理療法のひとつである『短期 / 家族療法』について学んできた。 とくにこの療法は『技法』(たとえば『リフレイミング』や『パラドックス』、各種の質問法等)を重んじる療法である。 技法やその背景となる理論を学んでいるとき、私はそれを「専門家同士の共通言語」として、また「専門家の自我を形成するうえで必要なもの(=専門性)」として学んでいたつもりであった。 しかし今では、結局私もそれを『technique』としてしか捉えていなったようにも思われる。 6.art について 以上を踏まえ、ここで『art =芸術』とは何なのか考えてみたい。 この言葉も、現代においてはまさしく前述の『(technique としての)技術』と同じような文脈で捉えられているように思う。 それはつまり、「ごく限られた才能あるひとが作品を創り、それに価値を見出した観客が触れさせてもらう」という図式である。 しかし、これにも私は違和感を感じる。 芸術とは、”それを発見する視点すら持てば、どこにでも転がっているもの”だと個人的には考えるからである。 そして、バワーズの定義「(知識および)技能を活用する芸術(art)」にも通じるが、それを形にし表現するには、訓練や努力によって身につく『技術(技能)』が必要であると思われる。 しかし、その技術や技能もじつに多種多様であり、あるいは必ずしも訓練や努力などが必要ではない方法もあるのではないかと思う。 7.結論 私の好きなことばに、”心理療法はパフォーミング・アートである”というものがある。 現代が『技術』偏重であると言うのであれば、そこにある問題は『技術 =technicque』という視点や考え方なのではないだろうか。 私が考えるソーシャルワークとは、やはり『art』であってほしいと思う。 そこには『価値』や『知識』、そして『(technique としての)技術』ももちろん含まれる。言ってみれば、それらを活用する過程が『art』なのではないだろうか。 では、ソーシャルワーカーとはどのような人間かと考えてみたとき、それは美術館などにいる案内人(キュレイター・学芸員)のようなものなのではないかと考える。 仮に、生活の中でより好く生きるために必要なものを『art =芸術』と定義してみる。 私たちは、クライエントがそれに気づき発見することを援助し、そのために知識や技能を動員する。 クライエントの中に芸術を発見する力があると信じることが私たちの『価値』であり、たとえば、クライエントがある油絵の前に芸術を感じるとき、その作者や背景や歴史や技法について知っていることが『知識』であり、同じように油絵を描いてみたい、とクライエントが思ったときにそれを手助けできることが『技術』なのではないだろうか。 『価値』『知識』『技術』、それら全体を不可分に『art =芸術』として捉えていく視点こそ、現代には必要なのではないかと思う。 そうでなくとも、少なくとも私はそういうソーシャルワーカーになりたいと思うのである。 # by How_s | 2006-01-24 23:19
いよいよ『精神保健福祉士』国家試験まで一週間となりました。
一昨日から調子を崩し少々風邪気味ですが、病院にも行きましたし、この週末は家で大人しくしていようと思っているので、おそらく来週には治ることと思います。 今回は、来週の専門学校定期試験に備えレポートを書いたので、まだ未完成ですが掲載したいと思います。 *文中の「坂野先生」というのは、日本福祉教育専門学校の坂野憲司先生のことです。 +++ 『精神保健福祉援助技術演習』レポート ○テーマ:PSWに必要な、(相互に依存し合っている)知識・価値・技術について” 1.話し合いからの共通理解 今回、事前にグループ内で話し合った結果、全員が「(相互に依存し合っている)知識・価値・技術」については、どれが欠けてもいけないものである、という共通の認識を持っていると分かった。 また、『価値』を他のふたつに比べ抽象的なものであると捉え、残りの『知識』と『技術』については比較的具体的なものであると捉えているように私には思えた。 2.現代 話し合いの途中、坂野先生より「現代は『技術』が中心になってしまっている」との助言があり、それには私も同意をする。 ただ現代が重んじている『技術』というのは、言ってみれば前提として「『価値』や『知識』を含まないものとしての技術」と捉えられていると思われ、また、この課題自体もそういう意味で『技術』を定義していると考えられる。 3.バワーズ 今回私がこの課題を考えるにあたって参考にしたいのは、Bowers, Swithun.(1908-)である。 彼はカナダの社会福祉研究者であり、1949年に論文『The Nature and Definition of Social Casework』のなかで、ケースワークを 「ソーシャルケースワークとは、クライエントとその環境の全体または一部分との間に、よりよい適応をもたらすのに役立つような、個人の内的な力、および社会の資源を動員するために、人間関係についての科学的知識および対人関係における技能を活用する芸術(art)である」 と定義している。 (*1.下線は筆者。 *2.art を『技術』と訳したのは仲村優一であり、また、その当時はソーシャルワークの科学性を強調するのが必要な時代であったとのこと。) 4.technique と art 英和辞典によれば、 (1).technique =技術;(芸術上の技法、技巧);手段 (2).art =芸術、美術;技術、技能;学芸、人文科学;人工;技巧、熟練 etc... となる。 先ほど挙げた坂野先生の発言でも触れられている『技術』、つまり現代で偏重されている『技術』とは、おそらく1.technique の謂なのではないだろうか。 そして、それには語義のひとつである「手段」としての側面が強いと考えられる。 ゆえに、現状に危機感を持つ一部のひとたちは、『技術』が手段としての意味を強く持っているがために、『目的』(つまりは『価値』や『文化』)を必死になって探し求めているようにも見えるのである。 5.心理療法との接点 私は、ソーシャルワークを学ぶ前は、心理療法のひとつである『短期 / 家族療法』について学んできた。 とくにこの療法は『技法』(たとえば『リフレイミング』や『パラドックス』)を重んじる療法である。 技法や理論を学んでいるとき、私はそれを「専門家同士の共通言語」として、また「専門家の自我を形成するうえで必要なもの(=専門性)」として、つまり『technique =技術』として学んでいたように思う。 しかし今では、それは勘違いであったようにも思われる。 6.art について 以上を踏まえ、『art =芸術』とは何なのか考えてみたい。 この言葉も、現代においてはまさしく前述の『technique =技術』と同じような文脈で捉えられているように思う。 それはつまり、「ごく限られた才能あるひとが作品を創り、それを観客が楽しむもの」という文脈である。 しかし、これにも私は違和感を感じる。 芸術とは、それを発見する視点すら持てば、どこにでも転がっているものだと個人的には考えるからである。 そして、バワーズの定義「(知識および)技能を活用する芸術(art)」にも通じるが、それを形にし表現するには、訓練や努力によって身につく『技術』が必要であると思われる。 しかし、その技術自体はじつに多種多様であり、必ずしも訓練や努力などが必要ではない方法もあるのではないだろうか。 7.結論 私の好きなことばに、”心理療法はパフォーミング・アートである”というものがある。 現代が『技術』偏重であると言うのであれば、そこにある問題は『技術 =technique』という視点や考え方なのではないだろうか。 私が考えるソーシャルワークとは、やはり『art』であってほしいと思う。 そこには、『価値』や『知識』ももちろん含まれる。 では、ソーシャル・ワーカーとはどのような人間かと考えてみたとき、それは美術館などにいる案内人(キュレイター、学芸員)のようなものなのではないかと思う。 生活の中でより好く生きるために必要なものを仮に『art=芸術』と定義してみる。 私たちは、クライエントにそれを発見することをすすめ、そのために知識や技術を動員する。 言ってみれば、クライエントの中に芸術を発見する力があることを信じることが『価値』であり、例えば、クライエントがある油絵の前に芸術を感じるとき、その作者や歴史や背景や技法について知っていることが『知識』であり、同じく油絵を描いてみたい、とクライエントが思ったときに、それを手助けできることが『技術』なのではないだろうか。 『価値』・『知識』・『技術』、それら全体を不可分に『art =芸術』として捉えていく視点が、今の現代には必要であるように思う。 もしそうでなくとも、私はそういうソーシャルワーカーになりたいと思うのである。
明けましておめでとうございます。
今年はどのような年になるでしょう? 私は、いよいよ『精神保健福祉士』国家試験(1/28・29)を前に、気持ちもそわそわし始めています。 学校はまだ冬休みで、毎日は勉強と生活で過ぎていきます。 正月を過ぎ、すこし気が抜けて風邪っぽくもありますが、明日(すでに「今日」ですが)は身体部門代表と鎌倉は鶴岡八幡宮に初詣に行ってきます。 去年は念願の法人格も取得し、毎日忙しくもありますが、ゆっくりNPO法人としても歩んでいくつもりです。 精神保健分野も、今年はずいぶん制度等の動きがあるかと思いますが、じっくりと腰を下ろし、動向を見据えていきたいと考えています。 2006年もよろしくお願いします。 NPO法人 心身コンサルテーション HOW's(ハウス) 心理部門:勝亦
去る12月10日の毎日新聞の、『子どもたちを守れ』という記事の第一回に、以下のような記述がありました。
「(自分のような)弱い者は”強さ””弱さ”に敏感です。自分の気持ちをハッキリ言えるように育てられた子どもは私たちには脅威です。」 「”大人に怯える憶病者”なのです。その心理を逆手にとった防犯対策を考えてみて下さい」 これは、昨年三月に小学校一年生が殺されてしまった事件の犯人とされる野木巨之(のりゆき)被告が、『性犯罪に遭わないために犯罪者側から考えること』という文書に記したものだそうです。 他には、 「人けのない場所が狙われやすい」「いつも同じ場所をうろつく不審者には大人が声をかけて注意する」「子どもがはっきり『嫌です』ということが大事」 ということが挙げられていたそうです。 個人的な考えになってしまいますが、私はひとの『よわさ』というものをいとしく思います。 『つよさ』というものはどこか鈍感さにも似ているように思え、また傲慢さを連想してしまいます。 けれども、ひとによって『よわさ』『つよさ』の定義は異なっていると思いますし、「つよくなければひとにやさしくはできない」といった耳心地の好いことばは真実であるように思ったりもします。 それでも、 私は、世間的には『つよくあれ』というなかば強制的な通念があり、『よわさ』は排除され虐げられているような気がしてなりません。 野木被告の言う『よわさ』は、おそらく私の考えるよわさとは根本的に異なっていると思うのですが、どこかで、彼が少女に行った行為は、彼の本当に主観的で過剰な感覚に裏打ちされているとしても、彼自身がそれまでいわゆる社会や世間から受け取った(と感じ、思いこんできた)さまざまな物事への反抗や暴発であったのではないかと感じてしまいます。 ただただ、それは赦されることではないし、少女を殺害してしまったたことの、到底彼ひとりが償いきれない大き過ぎる責任を減免するものではないと明記しておきます。 その上で、私は、 もっと社会や世間というものが、ひとが痛感し自覚する『よわさ』というものに敏感で、今よりわずかでも許容することができていたら、もっと素晴らしくなるのではないか と思ってしまいます。 これはソーシャルワークの理念でもありますが、仮に障害を持っているひとがよわさを抱えているとして、 障害を持っているひとが住みよい社会や世界は、やはり非障害者であるひとにとっても、今以上に住みよい社会や世界であると私は信じたいと思います。 現時点では、私はそれには情報の共有が不可欠であると思います。 ある面では、教育や啓蒙にそれがかかっているのではないかと思っています。 では、私は、「明日から なにを どうする」べきなのか。 一つの回答としては、得た情報を絶対のものと思わず、いつでも揺れていることが大切なのではないかと思います。 (たとえば、ほとんどの情報は恣意的に選択されて流されます。ニュース映像が、つねにカメラマン等によって選ばれているように。) それには、積極的に情報を取り入れること、つまりは他人との関わり、新聞やテレビ、電子ネットワークなどからの情報を絶やさないことが必要であり、またその際、自分と違った考えを避けないことが肝要であると感じます。 私を含め、人間は生きるために『自我』と言われるものを必要とし、それを揺るがされることをひどく嫌います。 けれども、どうか、それに過剰に怯えないでいられる人間でいたいと、私は思います。 それは、歳をとるにつれ本当に難しいことであるのだけれど。 また、「揺れる・揺るがされる」ためには、まずは揺らぐ主体である自分が必要である、と記しておきたいと思います。 そして、その主体も、苦しみながら揺らぐ過程で、おそらくできあがってくるものなのではないでしょうか。
1.推薦図書について
最近はよくこのWeblogにも手を入れているのですが、設定で『ライフログ』というものを見つけ本とリンクが出来ることを知り、ここにも表示させてみました。(右下の『ライフログ』というものがそうです。) 基本的にはおすすめの順番ですが、画像があるものを上に並べてあります。 また分野別には、総論および概論的なものがいちばん上になっています。 次に、『短期 / 家族療法』に関するもの、その次に一般向けの読み物に近いもの、そしてソーシャルワークに関するもの、といった順番になっています。 +++個別紹介 ・『星の王子さまと野菜人格—卓越した心理療法家のための参考書』 ・・・こちらは、いわゆるパロディ本です。しかし、全体を貫いている”笑わないコメディアン”的な佇まいは、ユーモアや笑いを重んじる『短期 / 家族療法』の在り方に非常に通じるものがあると思います。 また、学問のための学問になってしまい、臨床からは離れたところに行ってしまうことも多い『研究』を批評するような姿勢も秀逸です。 ・『変化の原理—問題の形成と解決』、『家族内パラドックス』、『よくわかる! 短期療法ガイドブック』 ・・・最初の二冊は、言ってみれば日本における『短期 / 家族療法』における聖書のようなものです。また、『よくわかる! 短期療法ガイドブック』は入門書に最適かと思います。私の恩師が最初に出した本でもあります。 ・『ミルトン・エリクソン入門』 ・・・私がもっとも敬愛している心理療法家はこのミルトン・エリクソンだと言うことが出来ます。 もともとは催眠療法家ですが、『短期 / 家族療法』においての”技法的父”とも言われています。そのエリクソンへの入門書です。 ・『学校臨床ヒント集—スクール・プロブレム・バスター・マニュアル』、『脱学習のブリーフセラピー—構成主義に基づく心理療法の理論と実践』 ・・・これらは、最高に素晴らしい本ではありませんが、あえて紹介したいと思います。・・・なぜならば、単純に私も一部執筆しているからです。 購入していただけると、多少の印税が私にも入ります。・・・失礼しました。 以上、また紹介していきたいと思います。 ソーシャルワークを勉強していると、『家族療法』に触れることもあり、無性に心理療法に関しての里心がつきます。 国家試験が終わったら、また勉強をしたいと思う次第です。 2.リンクについて ここで上げた記事にコメントやトラックバックをいただいた方のページにリンクを貼らせていただいきました。 右下『エキサイトブログ』とあるところから、eremiya2002さんの『神様に会うまで』、lomo98さんの『統合失聴者の日記』の二つのぺージにリンクが貼ってあり、ともに相互リンクにしていただいています。 ふたつのページとも、真摯な生き方や、その中のやわらかな毎日を垣間見せてくれます。是非足を運んでみてください。 心理部門:勝亦 ![]() ■■■■SUBJECT MATTERS■■■■ 01 ■”遊びじゃない、世界は殺し合いのようなキャッチボールなんだ”(アンダーグラウンド・サーチライ/『GURU』) 02 ■”世界とは成立している事柄の総体である〜語りえないことについては沈黙せねばならない”(ヴィトゲンシュタイン) 03 ■”言語は、便利な道具として発明されたのではなく、人類の病いであり、根源的な神経症的症状である。人類が言語を持ち、動物が言語を持たないのは、その能力が人類にはあって動物には欠けているからではなく、その必要が人類にはあって動物には欠けているからである。”(岸田秀) 04 ■”言語は、イメージを言語化するとすると同時に現実を言語化し、両者を同じ言語の土俵にのせることによって両者の間の裂け目をつなごうとする試みである”(岸田秀) 05 ■”言語とは、その意味を了解する他者が存在する神経症的症状である”(岸田秀) 06 ■”社会とは相互に関係しあう人間の構図(フィグラチオン)にほかならない”(エリアス) 07 ■「社会的世界」(他者理解における) 共在世界(ウムヴェルト)=自己と他者が時間、空間を共有する世界 同時世界(ミットヴェルト)=時間のみを共有する世界 先時世界、後時世界=時間を共有しない ↓ 「共在世界での他者理解が理解の原型をなし、同時世界では類型的な他者理解しかできないという。非対面的な場合、時間とともに変化する他者の主観的意味は捉えられないからだ。また自己理解は時間的に常に過去の自分しか捉えられないが、対面的他者の場合はほぼ同時に現在の相手を理解する可能性がある。この議論は、自己理解の特権性を剥奪し、共在世界の自他関係、『我々関係』に着目する論点であった。」(シュッツ Schutz,A.) 08 ■「多元的現実」(⇔一元的現実) 石=科学的観点、美的鑑賞、祈りの対象、実用的視点 個々の現実=「限定的な意味領域」そこでしか通用しない一群の意味(シュッツ Schutz,A.) 09 ■「生活世界」 ”世界は、自然的世界も社会文化的世界も、始めから類型によって理解される” 「間主観的」な類型による認識と行為の在り方 ↓ 日常行為者が様々な関心と関連性のもとで、様々な類型や言語・記号も用いながら相互行為しあう世界 (シュッツ Schutz,A.) 10 ■”内的時間のうちで他者の諸経験の流れを共有すること、生ける現在を共に生きることは、相互に波長を合わせる関係「相互同調関係」、つまり「我々関係」を構成し、そしてこの経験があらゆるコミュニケーションの基盤にある”(シュッツ Schutz,A.) 11 ■夢と現実の違いはなんですか? 12 ■”...すなわち現象世界の奥底で、自らが意志であることに苦しむ原ー意志があり、世界はこの意志が夢見る夢の形態に過ぎない。”(ショーペンハウエル/ニーチェ) 13 ■”...現代の危機のなかで我々にできることは「危険のあるところ救いもまた育つ」というヘルダーリンの詩に静かに耳を傾け、「存在の家としての言語」に聴従することである”(ハイデガー) 14 ■認識の獲得とは(「進化論的認識論」) =「問題状況(P1)でいくつかの解決案(TT)を試行的に提出し、それらを厳しい批判によって淘汰し(EE)、批判に生き残ったものを暫定的に保持することで、新しい問題(P2)に立ち向かっていく過程」(ポパー) 15 ■「三世界論」 物理的実在の世界=世界1 われわれの主観的な意識状態=世界2 記号や文章が読みとかれるときに現われてくる世界=世界3 ↓ これらの三つの世界は客観的に存在している、また、世界3は世界2から独立している、そして、これらが相互作用を行いながら、自律的に展開する。(ポパー Popper,K.R.) 16 ■セラピストに必要な能力とはなんですか? 17 ■コンピテンス Competence 「セラピストが適当な資格あるいは能力を持ち、しかも具体的な状況において適切な実践を行う能力」 ↓ 「特定の技法・スキルを実際に身につけていることよりも、相手に対して専門家としての印象を与え、自分への信頼感をしみこませる能力がセラピストとして重要な要因であるかもしれない」 「正式の訓練、理論的知識、および技術的能力は、特定の人格的特性や人間関係のスキルにくらべれば、はるかに重要度が低いことを示す根拠がある」(ホーガン Hogan,D.B.1979) 18 ■構成概念 Construct=「外的現実についての個人の解釈」(ケリー Kelly,G.A.) 19 ■構成的代替主義 Constructive alternativism 「個人は本質的に科学者であり、彼の世界に対するアプローチは、仮説を選択し、経験的証拠によってそれをテストするという科学者のアプローチである」↑14 ↓ 「個人の世界に対する最も適切な反応は、外的現実についての柔軟かつ常に代替案に対して開かれた概念構成である」 「世界と格闘するときには、常になんらかの代替的概念構成が存在し、選択できるという立場をわれわれはとる。なんびとも自分の伝記の犠牲者になる必要はない。」(ケリー Kelly,G.A.) 20 ■過去は原因になりうると思いますか? 21 ■われわれは広義のことばによって「世界」を構成する。 (また、世界はわれわれを拘束する。) つまり世界は「ことば」である。 また、ことばが「世界」である。 同様に、「現実」もまた「ことば」に含まれ、構成されるものである。(※ことば=Verbal+Non-Verbal) 22 ■死刑制度に反対ですか? 賛成ですか? 23 ■尋問のテクニック a.「マットとジェフの方法」 ジョージ・ウィットモア=「尋問官をほんとうの父親より親しく感じた」 殺人に関する61ページにわたる陳述。→犯していない二件の殺人に関する驚くほど詳細な叙述 マット=「重い」刑事、口汚くののしり、脅迫的 ジェフ=親切で優しく、マットの、容疑者に対する品位を下げる攻撃に心を痛める(ふり) b.「間を裂かれたペアに加えられるおどし」 マットはうしろの部屋に呼ばれ、ジェフは秘書のいる正面のオフィス。後ろの部屋から金切り声と大きな音。ジェフは秘書が呼ばれるのを聞く。秘書はジェフの元に戻ってきて、タイプを打ち始める。 ときどき事実に関しての質問が秘書からジェフにされる。 その後、係の刑事が現われ、ジェフと面接する必要はない、もう一件落着だ、と告げる。 ↓ ジェフは、無実であるという弁論をする一方、犯罪を詳細に述べ、それが相棒(マット)の罪であると告発する。(=「自発的な」自白) ↓ 実は何も喋っていないマットはその自白を読み、全面的に罪をきるか、ジェフを連座させる。 c.「逆構成」 重大な罪を着せる(武装強盗、誘拐、二十年から終身刑)→より軽い犯罪に対する罪を認める 24 ■態度=「ある人や人間の集団や状況に対して、ある一貫したやり方で反応する、比較的安定した、情動的色彩を帯びた先有傾向 Predisposition」 25 ■首を絞められている人を助けなければならない(または、助けたい)と思いますか? 26 ■人びとは自分の言うことを実行するか ↓ ”不幸なことに、多くの研究は、測定された態度と他の行動とのあいだに非常に弱い相関しか見出していない...なぜなら、態度に基づいて行動するためには、「機会」がなければならない、次に「知識」を持たねばならない、また「能力」を持たねばならない。であるから、行動と態度の結びつきは、状況の性質やその状況の中で適切な役割を遂行することに伴う困難さのゆえに、しばしば弱いものとなる。” 27 ■コミュニケーションの説得的な影響力 アリストテレス『弁論術』 エトス Ethos =伝達者の特性(知識、信頼、地位、強制勢力、報酬勢力、年齢、性、見た目、魅力、声の質、など) ロゴス Logos =メッセージの特徴 (論理的ー情緒的、昇り調子、始めから強い調子、言葉遣い、正負両方かー片方か、など) パトス Pathos =聴衆の情緒的性質(性、知能、教育、性格、論題に関する関心、情報のレベルなど) 28 ■態度変化 最もよく達成されるのは、行動がまず直接的に変えられる状況にさらさらされた後 ↓ 新しい職長23人(経営側に賛成)、新しい幹事35人(組合側に賛成) 29 ■つまらない作業 「認知的不協和 Cognitive dissonance」=心理的に不整合なふたつの認知(知識、信念、意見などの断片)を同時に持つときには、なんらかの方法で協和(整合性)を達成するように動機づけられること ↓ もう一人の被験者に対して「その作業がおもしろかった」と嘘をつく 二十ドルのグループ、一ドルのグループ ↓ 二十ドルのグループ=嘘をつくのに十分な対価 一ドルのグループ=嘘をつくのに不十分な対価(不協和)→作業は実はおもしろかった(協和) 30 ■『es』? スタンフォード大学(Zimbardo,1975)の「模擬刑務所」。 一日十五ドル「看守」役「囚人」役はコインで無作為に分けられた。 看守には「刑務所内の法律と秩序を維持する、囚人のくだらない発言に関わらないこと、身体的暴力の禁止」のみ。 ↓ 最初の囚人の反乱、鎮圧後、号泣、激怒、まとまりのない思考、重度の抑うつほか、仮出獄の訴えが却下され心身症的発疹、その後、解放。 31 ■病院版『es』 イリノイ州のエルギン州立病院(精神病院)。二十九人の職員に患者の真似。 ↓ 六人が逃走、二人は自分のかなにひきこもり、二人は号泣、一人は神経衰弱、ほぼ全員が緊張、不安、フラストレーション、絶望の全般的増加。 32 ■”現実の出来事を歴史として物語化するとは、まとまりと意味のある「美しい」過去と現在の姿のほうを顕彰し、混沌として無意味で「崇高な」現実像を抑圧することだ。...歴史物語という「形式」は歴史の統一性と秩序を暗黙の「内容」としてもっている。”(ホワイト) 33 ■”わたしのからだは世界と同じ肉でできている”(メルロ=ポンティ) 34 ■「可逆性」の考え方 ”見る身体と見える(られる)身体が同じ身体であるであるということのうちに、現象が生起することの根拠を探り出そうとするこの考え方は、見るものと見える(られる)もの、感じるものと感じられるものとの、たがいに巻きつき、絡みあい、編みあわされるという相互侵蝕的な関係を表わす「キアスム」(交叉配列)ないしは相互蚕食という概念を核として展開される。 ↓ 『キアスム』=...二つの項が分離したまま対立しているというよりは、むしろ、それぞれが他方に裏打ちされると同時にそれぞれが他方に転換してしまうような相互内属の現象(「たがいにほかのまわりをめぐる内と外」)をさしている。そしてこの関係は、見る身体と見える身体のあいだから、ひとつの感覚と他の感覚のあいだ、主観と客観のあいだ(見る身体と見える物のあいだ)、自己と他者のあいだ、言語と知覚、思考と存在、精神と自然のあいだへと拡張されるという(メルロ=ポンティ) 35 ■”言葉=思考の身体、コミュニケーション=間身体性”(メルロ=ポンティ) 36 ■”動物はその種ごとに別々の環境世界に住んでいる。...動物は、周囲に存在しているものすべてを平等に知覚するのではなく、餌や天敵などのような自分にとって意味のあるものを選択的に知覚しているのである”(ユクスキュル) 37 ■”「狂気とは要するに、そこから正気へと帰還してくる人間にとってすこぶる自然な出来事である。恵まれた状況さえ与えられれば、狂気とは正気へと帰還する可能性を持った、一つの旅路に他ならない。しばしば各種科学的治療法が、この自然な帰結を妨げている場合がある。我々が今必要とするのは、各種熱心な治療を行う精神病院よりも、旅路を完遂させるのを助ける場所である。」 ...彼は治療者と患者、正気と狂気という全ての境界を取り払ったキングスレイホールなる施設を開設する。が、この試みは失敗に終わり、以後彼は人びとの前から姿を消した。”(レイン) 38 ■”世界が語る最後の言葉、世界についての最後の言葉は、まだ語られていない。世界は開かれたままであり、自由であって、すべてはまだこれからであり、つねに前方にある。”↑19 (バフチン Bakhtin,M.M.) ■引用/参考文献 シュー・ウォルロンド=スキナー著/森岡正芳・藤見幸雄ほか訳『心理療法事典』青土社1999 P.G.ジンバルドー『ジンバルドー現代心理学?』1981 今村仁司編『現代思想ピープル101』新書館1999 岸田秀『ものぐさ精神分析』青土社1992
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